2021.12
神大の研究者
関口 博巨 先生
古文書に秘められた
謎を解き明かす
古文書大国と言われる日本。
襖や屏風の下張りにも古文書が使われている。
下張り文書は過去から送られたタイムカプセルだ。
彼は今、そのカプセルの開封にいどんでいる。
古文書との出会い
異星人の文字にしか見えないいにしえの人々のくずし字を読み解き、日本近世の歴史の謎を名探偵の如く解明し、しかも美術修復士のような手さばきで傷んだ古文書を甦らせる技を持つ。
文学部史学科で学んだ大学2年の時のこと。
日本史演習で古文書を使ったレポートの課題が出され、買ったばかりの一眼レフカメラをたずさえて訪れたのは北関東の図書館の郷土資料室。ある大名家の日記を撮影し、帰宅後、その写真をもとにくずし字を筆写してレポートを書き上げた。
「くずし字で書かれた古文書や古記録を読めるようになりたくて、地方史研究会という学生サークルに入会したり、夏休みには独習書を読んだりしましたが、あの大名家の日記を読み解くのはたいへんでした。それでも史料が読めてくると、誰も知らない歴史の“かけら”が見えてくる。これは面白いぞ、と。それで近世史を研究しようと思うようになったんです」
やがて、サークルの先輩たちがアルバイトをしていた日本常民文化研究所(以下、常民研)が神奈川大学の附置研究所になり、しかも憧れの網野善彦(1928~2004年)が教授、所員として着任したという情報をつかむと、関口は神大の大学院に入るが──。
「修士論文が書けなくて長いこと悩みました。網野先生は『難しいことを考えずに、史料を読んでわかったことを書きなさい』とか『ここがロドスです。ここで跳びなさい』とか叱咤激励してくださいました。常民研の共同調査の仲間たちにも支えられて、4年かかりましたが、何とか修士論文を書き上げました。
僕の研究者人生にとって、常民研と網野先生はとても大切な存在なんです」
教科書をも変える下張り文書
石川県は奥能登の旧家、時国家。この家と常民研とのかかわりは1952年に遡り、常民研が神大に移管したのを機に、1984年から時国家調査が再開された。調査団長はもちろん網野、アルバイトとして大学院生の関口も参加した。最初の調査では、母屋から土蔵まで家探しして大量の古文書を発見した。破損した襖の破れ目からは下張りに使われた古文書が露出していた。
「襖や屛風の表面には書画が貼られていますが、その下には表面の作品を支えて仕上がりをよくするために、反古紙が何層も貼り込んであります。それを下張り文書といいます。
時国家の共同調査では下張り文書も徹底的に調べました。下張りになっていなければ捨てられていたかもしれない古文書なので、これも貴重な史料なんです」
網野が主導したこの共同調査・共同研究から関口は、あの歴史の謎解きのダイナミズムを知ることになる。
「時国家は旧家とはいえ百姓身分でした。私たちが調査する前は、時国家は譜代下人を隷属農民として使役する古いタイプの大地主と見なされていたんですが、下張り文書を含む古文書群を調べていくうちに、時国家が大規模な廻船業や製塩業を手がけ、さらに鉛山経営にも触手を伸ばすなど、さまざまな事業を展開していたことがわかってきたんです。時国家の譜代下人の多くはそんな多角的な経営にふさわしい職能を有していて、とくに有能な者は支店を任されたりもしていました。時国家は実は地域経済を牽引する企業体のような存在だったわけです」
共同研究でのこの発見を、網野は『百姓=農民ではない』と表現し、繰り返し主張した。日本史の根強い常識を覆そうとしたのだ。
「近世の日本社会は自給自足的な農業社会だと考えられてきました。ところが、山野河海に恵まれた地域には非農業的な社会が存在し、企業家的な家が形成され、下人のような奉公人が抱えられていたわけですから、簡単に百姓を農民、村を農村に置き換えることはできません。そもそも江戸時代に農民身分は存在しません。最近の日本史の教科書は、近世の身分別人口構成の80パーセント近くを占めていたのは農民ではなく百姓としていますし、他の研究の進展もあって、士農工商という言葉はあまり使われなくなっています」
共同調査によって革新的な研究が生まれる瞬間を、関口は身をもって体験したのである。
やがて関口は、この時の経験を支えとして、瀬戸内海の「海の領主」と言われた二神家の研究などで、めざましい成果をあげていく。
運南蛮屏風は
海を渡ったタイムカプセル
時国家文書を整理する過程で関口は、他のメンバーとともに、東京大学史料編纂所古文書修理室の中藤靖之から古文書修復の技術を学んだ。
「虫に食われていたり、穴が開いていたり、水に浸かって劣化していたり、そういう傷んだ古文書を将来に残し、再び読めるようにするのが古文書修復です。熟練を要する繊細な修復の技術は、襖や屏風の下張りの技術にも通じています。私にできるのは調査と研究に必要な基礎的な修復だけですが、修復の経験が下張り文書を身近に感じさせていることは間違いありません」
関口はいま、研究代表者として「ポルト南蛮屏風の総合的研究による新領域の開拓」というプロジェクトをスタートさせた。ポルトガルはポルト市のソアレス・ドス・レイス国立博物館に保管されている南蛮屏風とその下張り文書を主な調査対象とする学際的研究である。
「屏風絵はもとより、作品を支える下張り文書、さらに下地の骨、それら全体を複合資料と理解して、中世史、近世史、民俗学、文化人類学、キリスト教史、情報学、船舶史、美術史、こういった分野の人たちに集まっていただいて総合的に研究してみようという試みです。下張り文書は18世紀の京都のお菓子屋さんのものでした。屏風絵自体はおそらく17世紀ぐらいのもの。骨はさらに古いものを再利用した可能性があります。これらがどのようにして一つの屏風になり、どのような人たちの手を経て、どのような経緯で日本からポルトガルへと伝わったのか。この屏風はいわば“海を渡ったタイムカプセル”なんです」
多くの人が利用できるように、このタイムカプセルを開き、2000枚にも及ぶと推測される下張り文書をデータベース化することがまずは求められている、と関口は言う。神大を超えて世界中の人々がアクセスできるようなデータベースを構築すること。それが自身に課せられた仕事の一つであると。