2021.12

神大研究者

北岡 祐 先生

アスリートを
科学する

自らも陸上競技に取り組んできたからこそ
アスリートのからだの神秘に果敢に挑む。
科学の最先端を
スポーツの現場につなげること。
それが彼の夢である。

北岡 祐 先生

Yu Kitaoka

人間科学部 人間科学科
運動生理・生化学、トレーニング科学
※2021年12月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #01競技者から研究者に

物心ついた頃からずっとサッカーに夢中だった北岡少年は、中学生になると自分は記録にかける個人競技のほうが向いていると思い、陸上を始める。足の速さには自信があったのだ。学校の体力テストをきっかけに1500m走に取り組むと、すぐに地域の大会で優勝した。一気にのめり込んだ。
「長距離は練習量が多くて大変なので、強度は高くても時間が短く済む中距離のほうが好きでした。大きな大会で勝てるような選手ではありませんでしたが、陸上競技は自分の記録が伸びていくのが見えるから面白いです」

以来、北岡はトラックを走り続ける。
「大学の時は、授業や実験の合間に時間を見つけてはとにかく走る、練習時間を確保することばかり考えている生活でしたから、周囲はヘンな学生と思っていたでしょうね。高校の時は800mの記録が2分ちょうどだったので、大学では2分を切るのが目標でした。受験のブランクもあって2年生の時に札幌で行われた大会でようやく達成でき、その後も少しずつですが自己記録を更新していきました」

大学では発生生物学の研究室に所属し、しだいに研究者として歩むことを意識し始めるようになる。
「でも、自分は将来どんな研究をしたいのか、かなり悩みました。他の同級生と同じようにそのまま進学して卒研のテーマを続けるのか、それとも別のことに挑戦するのか。卒研を進めているうちに、生物学の知識なり技術をスポーツに生かせないだろうかと思うようになりました」

4年生の夏休みに、これまで全く学んだことがなかったスポーツ科学の勉強に取り組み、大学院入試に合格する。運動生化学──それが北岡の選んだ研究分野だった。
「今はもう変わってきましたが、当時は分子生物学を勉強した学生がスポーツ科学を研究するという例はあまりありませんでしたので、その点はプラスだったかもしれません」

Chapter #02乳酸は疲労物質ではない

北岡の研究テーマの中心となるのは乳酸である。いまだ多くの人が乳酸を疲労物質と思い込んでいる。運動をして疲れるのは乳酸がたまるからであると。
「男子のトップアスリートは100mを9秒台で走ります。200mでは19秒台。でも、400mだと世界記録でも43秒台、800mでは1分40秒もかかります。ダッシュのスピードで走り始めると30秒ももたず、急激に速度が落ちる。からだの中で何らかの変化が起きている。それは何か知りたかったのです」

大学院生時代から、北岡は競走馬を用いた研究プロジェクトに参加してきた。一般的に実験動物として用いられるマウスやラットに高強度の運動を課すことは困難であり、かといってヒトのアスリートの筋サンプルを取るような研究を行うのも難しいが、サラブレッドなら可能だった。

分子生物学研究に欠かせないツールであるリアルタイムPCRシステム。
運動能力に関わる遺伝子発現の定量や遺伝子型の判別ができる。

「レース中のサラブレッドでは、ヒトよりもずっと血中の乳酸濃度が高くなります。乳酸は糖を分解する際にできるので、乳酸濃度が高いというのはそれだけ素早くエネルギーを作っているということなのです。さらに、乳酸は最終の代謝産物ではなく、状況によってはエネルギー源になっていることもわかってきました」

細胞内のミトコンドリアが酸素を使って糖や脂肪からエネルギーを作り出すプロセスを酸化系と呼ぶ。日常生活やジョギングなどのいわゆる有酸素運動では、酸化系によるエネルギー産生にほぼ依存している。一方、ダッシュなどの急速に大量のエネルギーを必要とする運動時には、酸化系だけでは供給が間に合わず、ミトコンドリアで酸化できる量を超えて糖が分解される。乳酸はこの酸素を必要としない、解糖系と呼ばれるプロセスで作り出される。つまり、全力疾走するサラブレッドは解糖系で急速にエネルギーを取り出し、大量に乳酸を産生することでトップスピードを数分間も維持できるというわけだ。
「わたしたちのからだには乳酸を作る能力と使う能力があり、測定できる乳酸のデータはその差分であることに注意が必要ですが、高強度の運動では乳酸を作る能力のほうがパフォーマンスに深く関係しているのです」

Chapter #03運動による
身体適応の謎を解き明かす

ヒトの体内に蓄えられている糖質は、筋肉と肝臓を合わせてもおよそ2000kcal程度と限りがある。糖を使い切ると、運動のペースを維持できなくなる。たとえば、それがマラソンの“30kmの壁"だ。
「前半は余裕で走っていても、エネルギーが足りなくなる後半はペースが落ちてしまう。長距離の種目では、レース中のペースの変動は極力小さくして糖を温存する、つまり乳酸はできないほうがいいです。一方で、乳酸を作れなくなってしまうと、ペースのアップダウンに対応できないし、ラストスパートで負けてしまいます。それでは乳酸は良いものなのか悪いものなのか、簡単な答えを求める学生たちは少しこんがらがるようです」と北岡は笑う。

カナダ留学時に北岡が研究したのは、マッカードル病という難病であった。骨格筋に貯蔵された糖の分解ができないという遺伝性疾患で、日常生活の動作ではほとんど問題はないが、急に走り出したり、階段を駆け上ったりという激しい動きができない。この病気の患者の体内では乳酸が作られないのである。

運動中の体内ではいったい何が起きているのか。乳酸にとどまらず、その謎すべてが北岡のターゲットである。そして自ら競技者でもあった北岡は、その研究の成果を多くの人々のトレーニングに役立てたいと願う。
「運動後の筋肉ではどのように遺伝子の発現パターンが変化するのか、あるいは休むとどうなるのか、研究室レベルではだんだんわかってきています。しかし、スポーツの現場で運動するたびに筋肉のサンプルを取るわけにはいかないので、たとえば汗に含まれる乳酸をはじめとした成分から運動の効果を推定できないだろうかと考えています。もちろん、わかっていないこともまだまだたくさんあるのですが、科学的な知見をアスリートが実際に生かせるようにすることこそ、僕の役割ではないかと思っています」

体育の実技の授業も持つ北岡は、今日もトラックを走り、ラボでピペットを握る。

東大大学院時代の恩師である八田秀雄教授との共著『乳酸をどう活かすかⅡ』(杏林書院)。
様々なスポーツ現場でどのように乳酸の測定データが活用されているのかを紹介する本の中で、「サラブレッドから考える高強度運動時の乳酸代謝」の章を担当した。

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