2021.3

神大研究者

周 星 先生

ボーダーラインをたえず
越境する学者であること

文化大革命、そして鄧小平時代の改革開放。
怒濤の中国から日本に研究拠点を移しておよそ20年。
国境の壁を越えた東アジア民俗学の構築を目指して
奮闘を続ける周の根底には平和への願いがある。

周 星 先生

Zhou Xing

国際日本学部 歴史民俗学科
東アジア民俗学
※2021年3月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #01普遍性のある価値を見出したい

周は「越境する学者でありたい」と言う。
越境するボーダーは日本と中国の国境であり、人類学と民俗学という学問の垣根である。
「“越境する” とは、普遍性を求めて、常に未知の世界に好奇心を持ってチャレンジし続けていくことです。学問の既存の枠に縛られることによる偏りを自分は持っていないか、常に自己懐疑的な態度をもつことが学者には必要だと思います。それがまた人間としての成長にもつながるのではないでしょうか。そのためにも“越境する” ことが大事なのです」

中国から日本へと研究者としての拠点を移しておよそ20年。文字通り自ら国境を越え、跨ぎつつ、日中韓の民俗文化の比較研究をベースとした、東アジア民俗学という“越境する” カテゴリーの構築を周は目指す。
「わたしたちは、学問において民との関係性を常に頭の中におくべきです。民との関係とは、実用だけではなく、国民の幸福、人間の幸福を第一に考えるということにほかなりません。現実世界には壁があり、他者不信もあるでしょう。東アジア三国には冷戦時代に残してきた問題もあります。それを乗り越え、民間の学問の世界から、一学者として、一市民として、普遍性のある価値を見出したいと考えているのです」

Chapter #02文革時代、そして改革開放へ

周の「越境」への情熱は、第二次世界大戦後の新中国の怒濤のような歴史とともに歩んだ半生そのものともいえる。
1957年、中国・陝西省丹鳳県に生まれた周は、小学生の頃に文化大革命を経験する。
「学校に通ってはいましたが、テキストをもらって勉強をした記憶がありません。子どもたちは皆まともな教育を受けられなかったんです。都市と農村の経済格差も深刻で、夏休みや冬休みに田舎の祖母の家に行くたびに農民たちの苦労を目にしました」

高校を卒業すると上山下郷運動によって周は農村へ下放され、3 年間を農民として働いた。「楽しかったという思い出はほとんどありません」と周は振り返る。

鄧小平の時代となり、改革開放が始まると大学が再開される。周は農村から受験し、1978年に西安の西北大学に入学、歴史学部で考古学の勉強を始める。
「まだまだ生活は厳しかったですが、イデオロギーの束縛から解き放たれ、世界が生き生きとしていました。蔵書の数は少なかったですが、毎日、図書館で本を読みふけりました」

日本との最初の縁が生まれたのはこのときのこと。考古学を学ぶにあたって第一外国語として指定されたのが日本語だったのである。
大学の4年間が終わる頃には周青年の学問への情熱はさらに高まり、大学院にあたる北京の中国社会科学院歴史研究所に進学する。
研究者、周星の誕生である。

「先史学、つまり文字ができる前の中国の歴史を復元するというのが当時のわたしの夢でした。甲骨文字が生まれる前の文明とはどんなものだったのか、その謎に迫りたかったのです。少数民族社会の調査とともに、考古学資料、文献資料とを合わせて中国古代を復元しようと思ったのです」
何千年も前、半穴居生活を送られた黄河流域の「原始人」と雲南の少数民族などの調査研究を続け、周は修士論文にまとめあげる。

周の著書の中でも代表的な3冊。中央の著書『道在屎溺:当代中国的厠所革命』(2019)は中国のトイレ革命について書いたもの。

Chapter #03日本にいることで見えること

その後、周は民族研究所にて博士課程を送り、指導教授となった「マルセル・モースやレヴィ=ストロースといった構造主義的人類学の中国での代表者の一人である楊堃先生」のもとで研究を続けた。卒業後は同所に研究者として勤める。周曰く、「堅苦しいイデオロギーにチャレンジして、国際社会を意識した研究を続けました」。やがて、周の名は斯界に少しずつ知られていく。
転機となったのは北京大学でのポスドクとしての勤務だった。指導教授は中国を代表する社会人類学者の費孝通先生である。
「先生はイギリス留学の経験があり、柳田國男先生に近い理想、つまり経世済民──学問は世の中のためにあるという考えを抱いており、わたしはそれに強い感銘を受けました」。

そして日本との第二の縁が生まれる。科研に参加するチャンスにめぐまれ、1992年から1 年間、日本に留学、外国人特別研究員として働いたのである。帰国後、周は日本での経験から、中国の学問のレベルアップのためには、外から中国を見る視線・視野が必要であることを痛感するようになる。北京大学で教授のポストへと昇進したにもかかわらず、閉塞感を覚えた周は、もう一度日本で研究をしたいと願い始める。そして2000年、ついに願いが叶う。愛知大学に教授として招聘されたのである。

「当初は2 、3 年で戻るつもりでしたが、日本にいると中国にいては見えなかったことがはっきりと見えることに改めて気づき、日本を拠点として中国と日本を行ったり来たりする、つまり“越境する学者” を選択することにしたのです。日本にいながら中国の学問世界に貢献する道があると思ったのですね。そしてあっという間に20年が過ぎました」

Chapter #04それぞれにそれぞれの美がある

2020年より周は神奈川大学国際日本学部で教鞭を執る。
「日本の民俗学の中心といえる神奈川大学で勉強をして、自分の学問をレベルアップさせたいと思っています。いまは東アジア民俗学──すなわち、越境する民俗学のあり方、その可能性を追究しはじめたところで、自国の民俗学ではなく、枠を越えた人類学、人間社会の普遍性を追い求める学問のあり方を探していきたいのですね」

学問は一国で自己完結するのではなく、普遍的なものが目指されるべきだと周は考える。そのためにも、日本と中国が協力し合い、努力しなければいけないと言う。
「お互いに相手の国の人間性を認め合うことがとても大事です。北京大学のわたしの恩師がこんなことを教えてくれました。『おのれの国の人も美しい。となりの国の文化も美しい。それぞれにそれぞれの美がある。だからみんなが美しい。そして天下は平和だ』と。相互信頼、相互確認を、学者たちがまず行わないといけません。難しいですが、その方向性は間違いではないと思います」

そしてその鍵は“越境” にあると。なぜなら、ラインを乗り越え、越境することで、今まで見えなかったことが見えてくるから、気がつかなかったことに気づくから。そう、周は言うのだ。

橋について論じた著書『境界与象徴:橋和民俗』(1998)の口絵。

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