2019.10
神大の研究者
梅崎 かほり 先生
ボリビアのマイノリティ
「アフロ」とともに
街角で目にしたアンデス音楽の楽団。
その哀愁を帯びたメロディーの虜となり訪れた
ボリビアに一目ぼれ。
そこから始まったボリビア研究の旅は彼女を
さらに遠くへと連れて行った。
そもそもはアンデスの音楽だった
南米、ボリビアにアフロボリビア人と呼ばれる人々が暮らしている。かつての植民地時代、アフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫である。その数、およそ 2 万3000人。ボリビアの全人口の0.2%にあたるマイノリティだ。梅崎はそのアフロボリビア人の、おそらく日本におけるただ一人の研究者である。
「ボリビアに住むアフロ系の人々が1980年代末から自分たちの権利を主張する運動を始め、今では彼ら自身が政治に参加するまでになっています。しかも、運動が歌を使って行われたという点が面白い。そんな彼らの運動やアフロボリビア社会の変遷について、現地で本人たちにインタビューするなどして調査を続けてきました。手法は人類学的でもあり、論文を書くときには社会運動論みたいでもあり、自分でも自分がしていることが “ナニ学” であるのかわかりません」と梅崎は笑う。
それにしても、なぜ遠く離れたボリビアなのか。そしてなぜ先住民ではなく、アフロボ リビア人なのか。キーは音楽にあった。
故郷の佐賀から大学進学で上京した梅崎が、都会の街角で偶然目にした、南米からやってきたストリートバンド。その彼らが歌っていたアンデス音楽に心を奪われたことが、彼女のその後の “運命” を決したのだった。
「『コンドルは飛んでいく』がアンデスの音楽だったことすら知らなかったのに、初めて見る楽器の素朴な響きや哀愁をおびたメロディーにはまってしまったんです」
大学 2 年にラテンアメリカ音楽のサークルに入り、アンデスの民俗楽器チャランゴ(小ぶりの10弦ギター)を始め、やがてその音楽仲間たちと南米に旅をした。
「ボリビアとペルーに行ったんですが、ボリビアの牧歌的で、のんびりした感じがとても気に入って。何ていうのか、ボリビアと目が合ってしまったんです。二十歳のときでした」
アフロの村で共に働きながら
研究への第一歩は言語への関心から始まったと梅崎は言う。「首都ラパスは標高約3600m ですが、それほど高くない渓谷地帯には広くケチュアという先住民が住んでいるんです。彼らが話すケチュア語の響きにとても惹かれました。もともとはインカの言語で、日本語と同じ膠着語なんです。そのケチュア語を勉強したいと思い、大学院に入りました」
修士 1 年目の夏、 3 カ月のボリビア滞在でケチュア語の基礎を学びながら、ボリビア音楽の歌詞に注目しつつ現地調査を始めた。ケチュア語だけで歌われる歌があれば、スペイン語とケチュア語の二つの言語が入り混じる歌もあった。耳をすませば、日常生活でもスペイン語とケチュア語の二つが混在していた。この二言語状況というものに梅崎は強く興味を抱いた。同時に、彼らの歌に込められた社会的メッセージ性も気にかかった。
「歌を知ることでケチュアの社会が見えてくるのでは。それが研究の最初のとっかかりでしたが、数カ月といった短期間では調査に限度を感じていました。すると、日本大使館の仕事で 2 年間、ラパスに滞在できることになったんです。しめしめと思っていたら、ラパスはケチュア語圏じゃないので、研究対象を変えざるを得なくなってしまって」
そんな時に目に留まったのが、歌や踊りに見られるアフロ文化の存在だった。ボリビアは先住民と白人の二重社会に見えがちだが、そこにはアフロというもう一つの要素があった。ちょうど梅崎が滞在した2001年頃は、そのアフロボリビアの人々の社会運動が注目を集め、新聞に取り上げられ始めた頃だった。「白人社会と先住民社会という視点からは、よりマイノリティである人たちがどんどん見えない存在にされていく。それがアフロ。じゃあ、その彼らを見ることで、先住民社会と白人社会のせめぎあいみたいなものも、違う角度から見つめなおすことができるんじゃないか。そういう気持ちから、研究をスタートさせたんです」
サヤというアフロボリビア独特の音楽がある。アフロボリビア人の社会運動は、そのサヤを自分たち固有の音楽としてボリビア社会に正しく認識してもらうという目的から始まり、やがて人種差別に対する異議申し立てなど、政治的なものへと変化していった。梅崎はその運動の指導者らに会って信頼を勝ち得ると、彼らの活動に同行し、時に彼らが集住する村で農作業を共にしつつ、コツコツとアフロボリビア人の歌や証言を記録していった。
「私がお話を聞いた高齢の方たちは、アシエンダという荘園制のような制度下で、奴隷制と変わらないような状況で働かされていたと言います。アフロの高齢の方たちは、そんな日々を歌にしてきたので、記録をしないとどんどん失われていく記憶がたくさんあるんです」
アフロボリビア社会に寄り添い、研究を続けて十数年がたち、博士論文にまとめたところで一段落したが、研究をやめる気はない。
「調査地の村に行けばみんなが私のことを知っていますし、彼らとの人間関係は決して切れるものではありません。世界でもアフロボリビアの研究者は少ないですから、ずっと研究をアップデートしていこうと思っています。アフロボリビアの文化や言語は、今日彼ら自身がアフリカ由来と主張するものも含め、アンデスの地で彼らが深く関わり合ってきた支配者層や先住民社会の文化的要素と複雑に絡み合っています。アフロボリビア研究にはまだまだ多くの切り口があるはずです」
南米は“でかい沖縄”
学生時代、沖縄に旅をして、沖縄の文化に興味を持った時期があり、沖縄では琉球語と日本語の二つの言語、二つの文化が混じり合っていることが印象に残ったという。
「初めて南米に行ったとき、“ここはでかい沖縄のようだ” と思ったのを覚えています。歴史的にも、征服・支配された経験が共通している。異なる文化や言語が接触するところで、しかも歴史的には強者・弱者、征服・被征服という背景がある中で、現代を人々がどう生きているか、そういうところに私は根本的に関心があるんだと思います」
最近の学生たちが日本は単一民族国家であり、民族の多様性が少ないから平和だと言い切るのを聞くと、違和感を抱くと梅崎は言う。
「日本にいる限りは自分のアイデンティティは揺らがないということなのでしょう。でも、本当にそうなのかと。アイデンティティが揺らぐ世界があることを知っている私は、いろいろなことを考えてしまう。そういうきっかけをくれた場所、それがボリビアなんですね」