2017.11

神大研究者

ボサール・アントワーヌ 先生

デカルトの国から
墨絵の国へ

情報科学の最先端の研究に従事するとともに
グラフ理論を応用してさまざまな漢字を
ネットワーク化した文字体系の研究でも
注目を浴びるボサール。そこにはフランスと日本、
二つの国の差異を力に変え、
常に「壁の外に出て思考」しようとする
ボサールがいる。

ボサール・アントワーヌ 先生

Antoine Bossard

理学部 情報科学科
グラフ理論
※2017年11月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #01数学と哲学は姉妹

デカルトやパスカルを生んだ国らしく、母国フランスでは高校3年の時に理系であっても哲学の授業があるという。ボサールはこの哲学の授業に少なからぬ影響を受けたという。
「私が思うに、数学は哲学の技術面ではないでしょうか。関数や演算という道具を使ってする哲学なのかもしれません。『数学と哲学は姉妹』とも言いますから」

大学1年の時には、ある数学の教授との出会いがあった。
「日本でもそうだと思いますが、高校の時は定理や定義の意味を深く考えずにただ試験問題を解くために勉強します。でも、この教授は、関数とは何か?極限とは何か?微分とは何か?その本質的な意味を真剣に説明してくれたんです。数学の授業で感動するなんて初めてでした」

ここでも数学の哲学的側面にボサールは心をときめかすのだ。専門を情報科学・計算機科学に定めたのも、そのせいかもしれない。

ボサールの専門はグラフ理論である。グラフというと円グラフや棒グラフなどの図表を思い浮かべるかもしれないが、ここでいうグラフとは頂点と辺からなる図のことだ。たとえば三角形は3つの頂点を辺で結んだ「グラフ」であり、「K3」と表現される。そんなふうに、グラフ理論とは、複数の頂点の結び方を探るための理論であり、身近なところでは電車の乗換案内アプリで最短経路の探索などに使われたりしている。

「グラフ理論は数学と情報科学の境界にある分野で、私はスパコン(スーパーコンピュータ)のプロセッサのネットワークにおける経路探索問題を主に研究しています。スパコンではプロセッサが数百万個もあり、それらをどう結ぶかがたいへん重要なんです。効率よくプロセッサが結ばれていないと、プロセッサ間のデータ通信速度がボトルネックになって性能が大きく低下してしまうんですね。最も効率よくプロセッサ間を結ぶための経路探索のアルゴリズムを考えること、それが私の研究の一つなんです」

Chapter #02漢字のオントロジー

それにしても、なぜボサールは研究の場として日本を選んだのか。
「私はノルマンディーで生まれ育ったのですが、8歳の時から町のクラブで柔道を習っていました。そのせいで日本の文化に興味がわいて、図書館で日本の歴史の本などを読んだり、水墨画の画集を眺めたりしていました。ティーンエイジャーになってからも黒澤明や北野武の映画やジブリのアニメを見たりと、ますます日本への関心が高まっていったんですね」

大学に入ってからは独学で日本語の勉強も始めた。文字に興味があり、ひらがなとカタカナの表を作って、授業中にこっそり覚えたりしていたという。
「大学で日本人の留学生と知り合いになり、私がフランス語を彼女に教えるかわりに、彼女が私に日本語を教えてくれることになりました。その留学生というのが、今の妻です」とボサールは照れくさそうに笑顔を浮かべた。
やがて大学院博士後期課程に、ボサールはついに日本にやって来るのである。

彼が追求しているもう一つの研究テーマは、そんな日本語の勉強を通じて親しんだ、東アジアの共通文字である漢字である。
「漢字の文字体系を科学的、論理的観点から分析するという研究です。ここでもグラフ理論を用いて漢字一つをグラフの頂点として考え、複数の漢字がどのようなネットワークを築いているのか、その間の関係を探るのです」

わかりやすい例をあげるなら、「榎」と「夏」という漢字の関係をグラフ理論の式で表せば次のようになる。
d(木,Ø)+d(夏,夏)=1

これは二つの漢字の間の「距離(distance)」を表現している。こんなふうに文字と文字の関係を数学的言語を使って多角的に表現し、部首などを頂点にしてネットワーク化する。そのことで、漢字の持つ音、意味、形だけでなく、私たちの意識に上がってこなかったさまざまな文字間の関係が見えてくるのではないだろうかということなのだ。
「この研究では、文字のオントロジー(概念体系)を見ようとしているのです。漢字とは何か。どんな特徴があるのか。それを文字と文字との関係から見出していくのですね」

左/漢字体系の研究から考え出された部首入力キーボードのアイデア。
右/漢字体系研究のノート。漢字の構成の定義についてのアイデアがフランス語で書かれている。

Chapter #03私にとっての幸せとは

この文字体系の研究は、外国人にとって効率的でわかりやすい漢字の学習法を考えたり、あるいは部首キーボードのような漢字の新しい入力方法を作るといった実用面での応用も期待されるとボサールは言う。また、AIが漢字を扱う際にもきわめて有益な理論となるのではないだろうか。
「私の経験から、日本や中国のような漢字文化圏では、漢字を深く理解しないと何もできないという面があります。でも、外国人にとっては漢字を一つ一つ覚えていくのはとてもたいへんです。だからこそ、漢字を覚える前に、漢字体系の特徴を知り、漢字への理解を深めたいと思うのです」

この研究の対象は、将来的には漢字に限らず、エジプトのヒエログリフなどといった他言語の文字にも広げたいとボサールは考えている。
「学生によく言うのですが、壁を越えて考えることが大事だと思います。それは観点を変え、思考のルールを変えることです。そして壁を越え、壁の外に出たときに、大きな視野が広がってくるんです。漢字の研究もそうですね。漢字自体が壁です。たとえば、日本人は常に漢字を使っているので、この壁の外が見えません。その壁を科学的観点から越えていくことで、新たな漢字の姿が現れてくるのではないかと思うのです」

複数のプロセッサの効率的な結び方として、共同研究者と一緒に提案した相互結合網(interconnectionnetwork)の位相(トポロジー)。

日本で暮らし始めて2017年で10年になる。昨年生まれた男の子も1歳になった。「幸せとは?」という質問にボサールはこう答えてくれた。
「妻と息子をはじめ、愛する人と一緒に時間を過ごすことが、私にとっての幸せですね」

漢字体系の研究では、18世紀の清の時代に刊行された中国の漢字辞典『康熙字典』など、多くの貴重な書物や文献も入手した。

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