2021.12

神大研究者

武内 道子 先生

ことばの謎と
驚異に挑む

人はだれでもなぜ一つのことばを操れるのか。
ことばを用いて
いかにコミュニケーションが可能であるのか。
ことばには多くの謎が潜む。

武内 道子 先生

Michiko Takeuchi

名誉教授
理論言語学
※2021年12月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #01言語機能はレントゲンに映らない

実は当たり前すぎて、誰も考えてみようともしないことにこそ、謎はまるで深淵のような口を開けている。
「人間であればだれもが4、5歳までに一つのことばをマスターします。しかも、いかなる言語も獲得できます。両親が日本人でもニューヨークに生まれれば、子どもの母語は英語になり、中国人と日本人の間に生まれた子どもがアラビアの砂漠に生まれ育てばアラビア語が母語になる。この事実をどう説明するかなんです」

人はいかにことばを覚え、話せるようになるのか。「当たり前」のことゆえに、なかなか学問の対象になり得なかった。
「呼吸に必要な肺や、消化に必要な胃と同じように、言語機能という心的オーガン(器官)を人は持って生まれると仮定せざるを得ないんです。それはブラックボックスなんて呼ばれますが、人は生まれ落ちた瞬間にそのブラックボックスがカタカタと動き出すんです。
ただ、そのためには刺激としての発話が必要。ことばを耳にしないといけない。その結果、生後数年でさまざまな言語環境の中で白くなったり、赤くなったり、青くなったりと個別文法に変化する。だから、狼に育てられた人は、後に人間社会に戻されてもなかなかことばを学べないんですね。そして、そのブラックボックスはレントゲンには映らない」

見えないものを対象とする点では、言語学は理論物理学や数学に似ていると武内は言う。
言語学の中では、言語知識の構造的側面(文法論)の研究は進化し、成果もある。もう一つの側面が語用論で、人がことばを使って「意味」を伝え合うことの根源的な仕組みを探ろうとするもの。その語用論における先端理論が関連性理論で、武内は日本におけるその第一人者である。
「たとえば一人の学生が『きょう、飲みに行こうか?』と言い、相手の学生が『明日、試験なんだよ』と言ったとします。誘った方は相手が断りのことばを一言も使っていないにもかかわらず、断られたと瞬時に理解します。
加えて『帰ったら勉強する』『試験が終わったら飲みに行こう』とも聞き手は解釈するでしょう。そんなふうに、話し手が伝えようとしている情報量は、ことばにしたことよりもはるかに多い。ことばで伝えようとした意味とことばにしなかったが伝えようと意図した意味とが大きく乖離していて、後者の情報量がはるかに大きく、伝達できている。しかも意識せず瞬時に。このことをどう説明するかということが語用論の課題であり、これを支配している原理を人間の認知に求め、認知科学の理論として確立したのが関連性理論なんですね」

Chapter #02発話から解釈までの長い道のり

「人間というのは知らないことを知りたい、あやふやなことはちゃんとフィックスしたい、間違っていることは訂正したい。こういう自分の認知環境(知識などの集合)の変化と改善を求める動物です。そのためには変化や改善の効果は大きければ大きいほどよく、同時にあまり労力は使いたくない。この二つの原則が交わったところを最適関連性と呼び、人はここを目指して発話解釈にあたるのです。だからああでもないこうでもないといろんな解釈をするなんてことはやってないんですね」

ロンドン大学留学から帰国した武内は、『英語青年』に3回にわたって寄稿した論文によって関連性理論学者としての地位を確立する。

「最小労力」で「最大効果」をあげる解釈が得られるよう話し手は発話を作る。すると人間の言語使用のブラックボックスともいうべき「関連性の原理」が聞き手においてカタカタ動く。いや、そのスピードを考えれば、“カタカタ” ではなく“ビュッ” というべきか。
「この関連性の原理というものを人は心の中にもって生まれてくると仮定しています。文構造を操る認知システムとは別に、この関連性の原理を操る認知システムがあるのではないか。人の心を読む力の表れであるような、発話解釈を律している認知システムがあるのだと考えているんです」

ここに存在する深淵に気づかないと関連性理論の真のすごさはわからない。武内の著書『手続き的意味論』に、《言語的に構造化されている意味から、伝達されている思考への長い道のり》というロビン・カーストン教授(ロンドン大学の関連性理論の研究者)の言が紹介されている。発話解釈はことばの意味を下敷きにして伝えられる「オモテ」の意味と、ことばにしなかったが伝えたいと意図した言外の「ウラ」の意味の合わさったもの。その「長い道のり」は、私たちの日常コミュニケーションの場ではひとかたまりで、瞬時に過ぎていく。それこそが「認知的謎」であり、人間の驚異なのだ。

Chapter #03コンピュータは人間を超えられない

英語教師になりたかった武内は大学卒業後、都の公立中学校教諭としてその夢を叶えるが、1964年の東京オリンピックで通訳の機会を与えられ、その職をやめてしまう。
「オリンピックが終わると、勉強をまた始めたいと国際基督教大学に入ったんですが、そこで井上和子先生に出会うんです。言語学の革命児チョムスキーのもとで博士論文を書いたアメリカから帰ったばかりの先生で、颯爽として、英語半分日本語半分で講義をして、板書する姿にも見とれるくらい憧れてしまいました」

それが当時まだ新しい言語学との出会いだった。やがて武内は研究を深めたいとアメリカのインディアナ大学大学院へ。新婚早々で、MBA取得を目指す夫との二人三脚の留学だった。武内が神奈川大学で教鞭を執りはじめて数年後、ロンドン大学で在外研究の機会が与えられ、そこで関連性理論の洗礼を受ける。
「ロンドン大学のデアドリ・ウィルソン先生は関連性理論の創始者で、先生の来日時に私がコーディネータを務めたご縁から留学を引き受けてもらい、ウィルソン先生の薫陶を受けた人たちともたくさん交流できました。ことばに関心をもったきっかけが井上和子先生なら、育ての親はウィルソン先生ですね」

関連性理論は、生命科学、AI、さまざまな学問の領域を横断し、その影響が期待されているが、武内は「人間の持つ言語能力、発話解釈能力をコンピュータは決して超えられません」と語る。

「ことばを持つこと自体驚くべきことですが、もっと驚異に値するのは、不完全で断片的な言語表現を使いながら、無限とも言える思考を伝達しようとし、それが成功裏に終わるという事実です。人間はどんなにすごいことをしているのかを、自分の言語生活の中で立ち止まって観察してほしい。それが私に研究をかき立てる源泉でもありますね」

間違いなく武内は神奈川大学の誇りであり、宝石である。

2014年、アメリカのUCLAで開催された第2回アメリカ語用論学会の国際会議で発表をおこなう武内。

OTHERS

前へ
次へ