2021.3

神大研究者

後藤 政子 先生

ラテンアメリカから
世界を見る

地球を北からではなく、南から見ると
世界はまったく違って見えると、
ラテンアメリカ現代史の第一人者の後藤は言う。
そこにはコロナ後の世界の姿も見られると。

後藤 政子 先生

Masako Goto

名誉教授
ラテンアメリカ現代史
※2021年3月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #01ラテンアメリカの今と日本の未来

「ラテンアメリカ諸国を単なる発展途上国とみなすと間違いを犯すかもしれません。先進的な面も数多くあります。一般市民が新しい社会への原動力になっていることもそうです」
持続可能な社会とはどのようなものか、ポスト資本主義の世界はいかにあるべきか、その一つの答えがそこにあると後藤は言う。たとえばコロナ問題だ。ブラジルでは地方政府や市民組織などが「単なる風邪だ」と豪語するボルソナロ大統領に圧力をかけ、さまざまな対策を実施させた。大統領にマスクをするよう裁判所に命令させたのも市民の力だった。コロナ情報の開示すらしないチリのピニェラ政権も、女性たちが「命のストライキ」を呼びかけると、何十万もの市民が加わり、連日、大規模なデモが全国で繰り広げられ、政策を変えざるをえなくなった。デモは新自由主義体制の転換を求める運動にもつながっている。
「1%の富裕層ではなく99%の普通の人々のための社会、多様な人々が共存する社会、持続可能な発展を目指して奮闘している国々もあります。中でも注目したいのはキューバです。21世紀にふさわしい新しい社会のあり方を求めて必死に試行錯誤を続けているんですね」
後藤がラテンアメリカに興味を持ち始めたのは、大学でスペイン語を学んでいた1960年代はじめのころ。

後藤の最初の著作『現代のラテンアメリカ』と『新現代のラテンアメリカ』

「当時、ラテンアメリカの学術研究は考古学や植民地時代が中心でした。そこでラテンアメリカ現代史の勉強を始めました。『米国の裏庭』と言われるラテンアメリカでは、独立以来、さまざまな自立の試みがなされてきましたが、ことごとく挫折してきました」

ところが1959年にキューバ革命が成功すると、「ラテンアメリカ史の転換期」といわれる大きな変動期を迎える。キューバは武力侵攻を初めとする米国のあらゆる干渉に耐え、革命の基本理念を守ってきた。「米国の事実上植民地」と言われた小国でなぜそれができたのだろう。いったいキューバ革命とは何だったのか。ラテンアメリカへの影響は?そんな問題意識のもとに研究を進め、書き上げたのが著書『現代のラテンアメリカ』だった。
「キューバは社会主義を掲げていますが、共産党の一党支配、独裁といった世間の常識とはまったく異なる社会主義で、『社会正義主義』と言ったほうがよいかもしれません」

革命後には貧困層の生活向上、人種差別の撤廃、女性の解放を進めた。対話民主主義を行い、前衛芸術も花開いた。カストロは革命が成功してハバナに入城するとすぐさま、世界的バレリーナのアリシア・アロンソに、「これからは国民のだれもがバレエや芸術を楽しめるようにしたい」と協力を依頼したと言う。キューバ革命が目指すのは、底辺層の人々も含め「すべての人々」が経済的にも、また文化的にも豊かに暮らす社会なのである。

Chapter #02知の力と草の根民主主義

キューバは社会主義国になったあと、ソ連や中国とは異なる独自の「平等主義体制」をとった。やがて、それは壁に突き当たり、1970年代半ばにソ連型の政治経済体制に転換した。このとき、カストロはソ連風の上意下達の政治体制の導入には強く反対した。参加民主主義という革命の理念とは相容れないからだ。カストロの意向は通らなかったが、すぐさま、「キューバ革命らしくない社会だ」という市民の声が上がり、80年代初頭には体制の改革に動きだしている。
「キューバの国造りのベースになっているのは知の力と草の根民主主義なのです。『キューバ独立の父』と言われるホセ・マルティという人がいます。19世紀の独立運動指導者で、カストロだけでなく、キューバの人々みなが尊敬しているのですが、思想的にはルソーなどの啓蒙主義の影響を受けています。マルティは『表層の陰に隠れた真実を見極める目を持つこと、それが教育だ』と言っています」

この理念に沿って、たとえば学校では先生が教科書で教えるのではなく、生徒自身が図書館で調べたり、教室で議論しながら知識を深めるという方法がとられている。革命前には4 人に一人が非識字者だったが、革命後、教育の発展に力が注がれて高学歴社会となり、厚い知識人層が形成された。こうした人々が研究調査を通じて社会が抱える問題を掘り起こし、政府に政策を提言しているのだ。
「キューバの人たちは『僕らはポリティカル・アニマルなんだ。政治のことも自由に意見を言い合うよ』と言うんです。みな、本当に議論好きなのですね」

カストロの墓。ただ「フィデル」とだけ書かれている簡素な墓碑だ。背後に見えるのはホセ・マルティ廟。

実際、共産党規約にも『異見の存在を当然とみなし、尊重する』と規定されている。議会制度も、職場や学校などさまざまな草の根組織での議論が地区議会から国会へと積み上げられていく仕組みだ。コロナ対策でも、地域に密着した医療制度に加え、専門家の知見の結集や住民の政策決定への参加によって感染拡大を抑制し、世界のお手本となった。一方、1990年代から部分的経済自由化が進み、複雑で難しい問題も出ている。

「一つは貧困層に黒人が増え、人種差別が少しずつ頭をもたげつつあること。もう一つは、高学歴の女性が管理職や研究者などとして活躍する一方で、一般女性は単純労働という『女性の分化』が見られ始めること。制度的には完全に平等なのですが、政府の必死な努力が及ばないところで目に見えない市場の力が働いたり、これまで心の奥に封じ込められていた差別意識が表に出始めているのです」

2019年、キューバは新憲法を制定した。
「まさに21世紀にふさわしい憲法だと思っています。すべての人々の自由や平等を基本理念に、政治的信条や報道の自由などのほか、国民が政府に情報開示を求める権利、それに政府が的確に答える義務も規定されています。女性の平等については特に条項が設けられています。新憲法は革命から60年、紆余曲折の末にようやくたどり着いた一つの着地点と思います。憲法に謳われている理念をいかにして実現していくのか、難しさをひしひしと感じますが、しっかり見つめていきたいですね」

さて後藤は、学生自身が教材用ビデオを作製するという企画で神奈川大学の学生と、何度かラテンアメリカ諸国を訪れている。
「コスタリカでは平和憲法を守ったことで知られるモンへ元大統領にもインタビューをしたのですが、学生たちがとても礼儀正しく熱心なことに大統領が感激して2度もお手紙を下さいました。作製したビデオの上映会も開かれたそうです」後藤は少しでも多くの学生にラテンアメリカについて学んで欲しいと願う。「地球を北ではなく、南から見ると、まったく違った世界が見えてきます。ラテンアメリカは日本の未来について考えるためのよい鏡になるかもしれません」

OTHERS

前へ
次へ