2018.11

神大研究者

永野 善子 先生

フィリピン、ひと筋に

ある“ひらめき”から
直感的に選んだフィリピンという国。
このアジアの国を長年にわたってひと筋に
研究し続けた永野。
その成果は世界で高く評価されている。
そんな永野の来し方を
“女 3 人の冒険旅行”からたどる。

永野 善子 先生

Yoshiko Nagano

人間科学部 人間科学科
フィリピン経済史
※2018年11月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #01女3人の冒険旅行

アジアを主にした国際関係論、とりわけフィリピンの政治・経済史における第一人者が永野だ。その研究は当のフィリピンにおいても高く評価されており、2003年の永野の著書『フィリピン銀行史研究植民地体制と金融』の英語版(2015年、シンガポールとマニラで刊行)は、その年のフィリピン・ナショナル・ブック賞の歴史分野で最終候補5点の一つに選ばれている。

それにしても、なぜフィリピンなのか。津田塾大学を卒業した年に、女子高時代の2人の友人とともにおよそ3カ月半をかけて、スウェーデンからヨーロッパ、北アフリカ、インド、東南アジアをバックパッカーとして旅したそのときに「ひらめいた」のだという。
「スペインがとても面白かったんです。でも、スペインは日本からは遠い。そのとき、ひらめいたんです。日本の近くにはフィリピンがあるじゃないか。よし、フィリピンの研究をしようって。笑っちゃうでしょ?」

かつてフィリピンがスペインの植民地だったことからの連想だが、フィリピンに行ったこともないのに、この直感は、のちにフィリピンを永野の「仕事」にすることになった。1973年のこのとき、1ドルはまだ300円前後。スペインは距離だけでなく、経済的にも遠い国だったのだ。この女性3人の冒険旅行は「ひらめき」だけでなく、その後の永野の世界を見る目、とくにアジアを考える上での貴重な体験となった。

「アルジェリアからマルセイユまで船で渡ったのですが、船員がベトナム人の方々で、二等席にいるわたしたちをかわいそうだからと自分たちの船室に入れてくれたりして。アジア人としての同郷意識が強いんですね。インドで女性専用車に乗ったら椅子の下で男の人が寝ていたりしたことも(笑)。東南アジアでは皆が自然と和して生きていました」

そして帰国後、永野は大学院へと進む。

フィリピン、ネグロス島のサトウキビ農園で働く人々(1991年)。

Chapter #02初めてのフィリピンで驚いたこと

永野が最初の研究テーマに選んだのはフィリピンの砂糖産業の歴史だった。19世紀に多くの大農園が生まれたことで主力産業となった砂糖。その歴史を掘り下げていくのはとても面白そうな仕事に思えた。当時、日本国内でも資料や文献は少なく、フィリピンに留学している人などと連絡をかわして現地の資料を入手、苦労の末に修士論文を書き上げた。

一橋大学大学院に移ると、奨学金を得て1977年から1年半、国立フィリピン大学大学院に留学をする。初めてのフィリピンだった。「当時の日本と違っていたのは、“なぜ女性なのに大学院で勉強するの?”という発想がフィリピンの人にはなかったことでした。女性の地位が高い国なんですね。ありとあらゆるところで女性が表に出ていた。理由の一つに、東アジアの国々と違うフィリピンの家族制度があると思います。日本は結婚すると単系になりますが、フィリピンでは完全な双系制なんです。おそらく日本もかつてはそうだったのでは」

1960年代のフィリピンは対日感情が非常に悪かったのだが、1970年代後半になると日本企業がフィリピンにも進出し、日本人への憎悪も緩んでいた。
「'60〜'70年代にかけて、アジアに関心のある研究者は、日本との違いからその国を見るという人が多かったと思います。それは違うんじゃないかって、わたしは思っていました。そうではなく、人々はどういうことを考え、どういう問題を抱えているのか、その国の内側から掘り起こしてみないといけないのではないかという気持ちがありました」

英語の著書はフィリピン・ナショナル・ブック賞の歴史分野で最終候補5点の一つに選ばれたもの。

フィリピン留学を終えた永野は、その後、砂糖農園の調査研究のために毎年のようにフィリピンを訪れることになる。この砂糖産業の歴史についての研究は、1986年、初の著書『フィリピン経済史研究糖業資本と地主制』として結実する。

Chapter #03等身大でつきあうアジア

次のテーマに永野が選んだのは銀行だった。
「アメリカがスペインに代わって宗主国になった20世紀初頭には、日本の日銀に当たる中央銀行が存在せず、フィリピン・ナショナル・バンク(PNB)やバンク・オブ・フィリピン・アイランドという民間銀行が紙幣を発行していました。フィリピンペソとドルはリンクされていましたが、通用する貨幣は銀でした。とても複雑な通貨システムだったんですね。ちょうど神奈川大学に来たころから、そんなフィリピンの銀行のことが気になってしかたありませんでした。PNBについての資料はワシントンの国立公文書館にあることがわかりましたので、1998年にアメリカに行き、6カ月ほどかけて調べました。アメリカ政府とフィリピンとの間でやり取りされていた大量の電報を調べていくと、驚くことに、アメリカの植民地時代、フィリピンを騒然とさせたPNBをめぐるスキャンダルがあったのですが、それは実はアメリカの失態を隠蔽するのが目的だったということがわかったんです」

19世紀半ばのフィリピン史スペイン語資料タイプ版。

そのPNBをめぐるスキャンダルとはこうだ。第一次世界大戦によって砂糖の輸出価格が上がることを見越し、PNBが大量の貸付をしたのだが、輸出価格の急落によってこれが不良債権化する。宗主国アメリカは、この責任は貸付をしたPNBにあると、当時のフィリピン人総裁を投獄してしまったのである。

ところが、永野が見出した真相はこうだった。アメリカの戦債が、フィリピンの通貨制度を誤って理解していたアメリカ人行政官によって間違った価格での交換がなされ、そのためにインフレが発生、PNBの準備金も空になってしまった。このアメリカの植民地体制のずさんさがもたらした失態を隠し、植民地政策を維持するために、PNBの不良債権問題を利用して世論操作をおこない、フィリピンに責任を押しつけたということなのだ。

こういった重大な発見を含み、政治史と金融史とのクロスオーバーという手法で執筆され、シンガポールとマニラとで刊行されたのが、冒頭で紹介した『フィリピン銀行史研究植民地体制と金融』なのである。

いま永野ゼミでは、アジア諸国の人々とどのように向き合うべきか、アジアの留学生たちと一緒に考えていくということをしている。
「アジアで日本がトップだった時代は終わり、いまは日本人とアジアの国々の人は、お互い等身大でつきあえるようになりました。とてもよいことだし、重要なことだと思います。日本のアジアの中での位置が変わったのだということを積極的にとらえて、他のアジア諸国にもいいものがいっぱいある、それらを日本のものとどういうふうに交換してウィンウィンの関係になるのか。それを考えることが大事なのじゃないでしょうか」

あの若きころのバックパッカーのコスモポリタンな血が、いまだ永野のからだの中を熱く流れているのかもしれない。

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