2015.7

神大研究者

村井 まや子 先生

私たちは今も、おとぎ話を生きている。

聴き慣れた歌でも歌うように、誰でもいくつかのおとぎ話を、すぐに思い出すことができる。
生まれて一番最初に触れた物語の記憶―、その人はもちろん、社会の在り方にすらも影響する。
たとえば女性を女性らしくふるまわせるのは、おとぎ話だったりする。
どれだけ深読みしても読みきれない、おとぎ話の深層へ、ようこそ。

村井 まや子 先生

Mayako Murai

外国語学部英語英文学科
イギリス文学・比較文学・おとぎ話
※2015年7月発刊時の取材内容を掲載しております。

Chapter #013つの『赤ずきん』?

むかし、むかし、あるところに「赤ずきん」と呼ばれた女の子がいました。赤ずきんは森を抜けておばあさんの家へ向かいます。道中、赤ずきんは悪い狼に出会いました。悪い狼は、おばあさんの家の場所を突き止め、先回りしておばあさんを食べてしまいました。そして悪い狼は、おばあさんに化けて赤ずきんを待ちぶせました。何も知らない赤ずきんは、おばあさんの家へと辿り着きます。そして悪い狼は赤ずきんに飛びかかり、赤ずきんを平らげてしまいました。―この『赤ずきん』は、このシーンで唐突に終わる。1697年にシャルル・ペローによって書かれたものだ。私たちの多くが知る、猟師が現れて赤ずきんとおばあさんを救出し、ハッピーエンドを迎えるのは19世紀のグリム童話のそれである。

また、「おばあさんの話」として知られるフランスの口承民話にも、赤ずきんは登場する。しかし、主人公の少女は赤いずきんを被っていないばかりか、自らの機知によって狼を出し抜き、無傷で逃げ帰ることに成功する。
「おとぎ話には、単一のオリジナル・ストーリーはありません。作家が自由に書き換えて良いという、不思議なルールを持った古典なのです」と村井まや子は話す。冒頭では 3 つの『赤ずきん』に触れたが、このどれもが「原典」ではないのである。

「おとぎ話は、時代の中で語り手と聞き手が変わるたびに書き換えられ、後世へ伝わります。ペローは17世紀末の宮廷人。結婚前の若い女性に向けて書かれた『赤ずきん』には、結婚前に悪い男の口車に乗せられるなという若い女性への “警告” が見て取れます」

(左)大人が読むべきおとぎ話は、「まずはグリム童話だ」と村井は言う。写真は『The Original Folkand Fairy Tales of the BrothersGrimm』。(右)村井の新著『From Dog Bridegroom to Wolf Girl』の表紙絵は現代美術作家・鴻池朋子の作品。複雑で美しい構図の中に狼と少女が浮かび上がる。

Chapter #02世界はおとぎ話でできている

村井は、おとぎ話の “Intertextuality”、すなわち特定のおとぎ話の構造やモチーフが、どのように文学、アート、映画などの現代文化の中に見いだせるかを考察し、批評するのが主な研究だ。国内外の作家やアーティストとも研究を通して親交がある。

「おとぎ話研究は、カオスの中に特定のストーリーや文脈のパターンを見つける面白さがあります。たとえば難解な現代美術や現代文学に触れた時、“何をどう理解すべきか” が分からなくなり、閉口します。ここで語り始める言語として、おとぎ話が使えると、世界が違って見えてきます」と村井は話す。

子どもの頃から繰り返し触れてきたおとぎ話は、意識されないままに私たちの思考の血肉となり、考え方のパターンを規定する。その意味で人生というものは、おとぎ話の再生であり、再編であり、再構築の物語なのかもしれない。おとぎ話は私たちの無意識下に潜み、この世界の中に文学や絵画、映画となって溶け出している。村井はそれをすくい取り、再結晶化し、批評する。

「私には、この世界はおとぎ話が複雑に組み合わさった結果として見えています。だから目の前で起こることに “あ、これは知っている” と思える。混沌とした現実の中に、自分の知っているパターンを見出すことで、考える手がかりを得られる。現状を客観的に分析し、陥りがちなパターンを脱するための方策を考えられるようにもなります」

Chapter #03おとぎ話がつくった、ジェンダーの今

村井はおとぎ話からジェンダーも考察する。「伝統的なおとぎ話には、男性が女性を抑圧する価値観で書かれたものが数多く観察されます。つまりヒーローが何かを成し遂げる時、必ずと言っていいほど美女や子どもが現れ、ヒーローを支えることで、円満なエンディングを迎えるのです。ジェンダーの視点から見ると、非常に女性に対して抑圧的な権力構造の刷り込みと言えます。女性が主体的に何かを成し遂げるのではなく、ヒーローの無意識下に追いやられているのですから」

たとえば『白雪姫』は、ヒロインである白雪姫の自己実現というよりは、王子様が美女を見つけ、手に入れるという物語として読める。男性原理が強く働くおとぎ話が、グリム童話などでも多く採用された。これは現代の父性原理の社会の成り立ちと相似形を成しているとも見える。村井はこうした抑圧された女性像からの脱却、つまり「女性の脱神話化」を、おとぎ話から模索する論者でもある。

「おとぎ話は、大人にこそ読んでみてほしいと思うのです。おとぎ話の表層はとても単純で “透明” に見える文体で書かれています。子どもが体験できるのはこの部分だけです。大人になって、その深層を探れるようになると、普遍的な葛藤や矛盾などが次々と浮かび上がります。グリム童話は、みんなが知っているおとぎ話ですが、今読んでみると、そこには誰も知らない自分だけの人生の手がかりが見えてくるかもしれません」

社会が人間の意識の表象物だとすれば、その根底に、多くの人々が幼い頃に繰り返し触れたおとぎ話のコンテクストが見いだせることに何ら不思議はない。おとぎ話のIntertextualityは、文学や芸術作品だけではなく、この現実世界へと広がっているのだ。

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