2015.2
神大の研究者
岩倉 いずみ 先生
化学反応に眠る、未知の光景
2H2+O2→2H2O、これは理科の教科書に出てくる化学式で、かなりポピュラーな式に違いない。化学者でなくても誰もが一生に一度は見るだろうこの化学式は、酸素(O2)存在下で水素(H2)を反応させれば、水(H2O)になる「水素の燃焼反応」を示している。
決して珍しくはないこの化学式の「→」の中には、世界中の誰もが見たことのない光景が眠っている。
つまり、いつ、どのように水素間や酸素間の結合が切れ、水素と酸素の結合が生まれるのか、その反応の様子を実際に見た人は誰もいないのだ。
岩倉いずみは、この反応の“未知の光景”を、レーザーという目で見つめている化学者だ。
反応過程を映し出す5フェムト秒のストロボ
約100年という時間、その“未知の光景” にはいくつもの仮説が唱えられた。1912年にドイツの化学者ライナー・ルートヴィッヒ・クライゼンが発見した「クライゼン転位」だ。アリルビニルエーテル(CH2CHCH2OCHCH2)という物質は、加熱されると分子内で炭素(C)と酸素(O)の結合が切れ、炭素と炭素が結合する。一体、どのようにして結合の場所が変わるのか? 「まずは炭素と酸素の結合が切れ、それから炭素同士が結合する」「先に炭素同士が結合する」「いやいや、それぞれの結合の開裂と生成が同時に起こる」といった様々な仮説がその未知の光景、反応の遷移状態を説明しようとした。しかし、推測することはできても、遷移状態の分子構造を実際に見ることは不可能だとされてきた。
この不可能とされた未知の光景こそが岩倉が見ようとしたものだった。では、どうやって “見る” のだろう?
化学反応過程を実際に「見る」ための研究は、1949年の「ポンプ・プローブ測定研究」に始まる。この研究で「マイクロ秒(10-6秒)」の閃光パルスが用いられて以降、約半世紀の間に「高速化学反応の研究」はフェムト秒(10-15秒)の領域にまで発展している。
彼らは、ミルクの雫が落ちる瞬間に、王冠のような形を生み出す様子「ミルククラウン」を捉えるカメラの「高速度撮影」を思い描いた。人の目では捉えきれない一瞬の動きを、ストロボを使って画像として切り取る高速度撮影のように、反応過程を見ることはできないだろうかと考えたのだ。
遷移状態を見るために必要なものは閃光時間の短いストロボである。それも、閃光時間が分子内で原子が振動する周期よりも短い、ストロボだ。そして岩倉が出会ったものは、「5フェムト秒パルスレーザー光」だった。
“見える”状況をつくる第三の化学反応
2002年、後に岩倉が運命的な出会いをすることになる小林孝嘉(電気通信大学特任教授)によって、振動状態の実時間計測を可能にする「可視・極限的超短パルスレーザー光」が開発される。小林は、光反応遷移状態を観測する研究を行った。続く岩倉がアプローチしたのは、熱反応遷移状態への応用だった。
少し教科書に戻るが、一般的に化学反応は2 つに分けられる。熱によって振動状態を励起して進行するのが「熱反応」、そして光によって電子状態を励起して進行するのが「光反応」だ。熱反応はおなじみだが、光反応は、たとえば紫外線照射によるDNAの損傷などが挙げられるだろう。
そもそも、分子内の原子の動きを「見る」ことを難しくさせている理由のひとつに、反応下にある各分子内の振動が、そろっていないことが挙げられる。原子がばらばらに動くと、いわば大勢が参加するパーティで、それぞれの客が何を話しているかが聞こえなくなるように、ノイズが多すぎて、そこで何が起こっているか捉えようがないのである。
しかし岩倉は、反応そのものを新しく生み出すことに成功した。それが5フェムト秒パルスレーザー光によって振動状態を瞬時に誘起するという “第三の化学反応”、「コヒーレント分子振動励起反応」だ。
一般的な熱反応は、すべての分子がばらばらに動く中で起こっている。ところが 5フェムト秒パルスレーザー光を照射することによって引き起こされるコヒーレント分子振動励起反応では、すべての分子が同じダンスを踊るように振動をそろえ、タイミングを合わせて一緒に熱反応を引き起こす。そこへ、分子振動周期よりも短い、閃光時間 5フェムト秒の検出光を照射することによって、ストロボ写真を撮るように原子位置を測定し、その振動周期から反応中の分子の形を “見る” ことができるのである。
それは、100年以上も謎に包まれていた未知の光景を、ついに岩倉が見た瞬間だった。
「分子を見る」から「分子をつくる」へ
岩倉の反応機構に対するこだわりは、学部から大学院までを過ごした有機合成化学の研究室に始まる。岩倉はフラスコを振りながら、化学反応が進行するメカニズムにばかり思いを巡らせていたという。「合成よりも、理論計算を用いたシミュレーションで反応機構を考える方が好きでしたね。私は有機合成が下手なんです。でも、反応機構を理解し、理論計算で触媒も溶媒もすべてシミュレーションして、一番良い条件で合成すれば下手な私でも合成できるかも、と考えたわけです」と、岩倉は笑顔で話す。
その「できるかも」を実際に試したことが、岩倉の博士課程における大きな仕事になった。従来は「そこで何が起こっているか」の、いわば “後追い” として使われていた理論計算を反応機構のすべてのシミュレーションに用い、その結果から新反応の開発に結びつけたのだ。その後岩倉は、実際に反応の様子を「見てみたい」と真剣に思うようになったという。
そんな日々を送るうち、岩倉は当時東京大学で教鞭をとっていた小林孝嘉と出会い、実際の反応の様子を、本当に見ることができると知り、光反応における遷移状態の振動分光法を学ぶ。後に岩倉が開発したコヒーレント分子振動励起反応を用いる計測には、小林が開発した分光法が応用されているのである。小林が光反応に対する分光法を開発したのに対し、岩倉はコヒーレント分子振動励起反応による熱反応の分光法を開発している。
「コヒーレント分子振動励起反応は、すべての分子がタイミングを合わせて同時に反応する。今はこれを活かした新しい合成反応が開発できないかと考えています」
今まで誰も見たことのないものを見た次には、誰もつくれなかったものをつくってやろうというわけである。岩倉の挑戦はいつも新しい。