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日本常民文化研究所 常民研News
渋江家の没落と童信仰の伝播
 しかしながら、河童信仰の起源と展開を論じるという点では、『川の記憶』ばかりでなく「河童相撲考」にも明確な限界があった。それは、潮見城の主として長島庄を治めた渋江氏とその末裔が残した文書には、ほとんど直接触れ得なかったからである。そこで、『川の記憶』執筆のために長年続けてきた同家文書探索の旅を同書刊行後も継続することにし、1998年度までは個人研究として、僅かながら毎年常民研の予算を割いて貰った。
 ここで、渋江氏の歴史、殊に長年の所領である長島荘(庄)を失って子孫が肥前・肥後各地に離散するあたりの事情を、少し詳しく説明しておく必要があるだろう。それが、渋江氏の伝えてきた水神(河童)信仰が九州各地に広がる契機ともなったからである。
 嘉禎3(1237)年に旧来の所領である伊予国宇和郡の地頭職を解かれて肥前国長島荘の総地頭職として入部した鼻祖公業以来、この地に根を張ってきた肥後渋江氏も、公勢(13代)が70歳で横死した直後の大永7(1527)年3月、(公勢の嫡男で後藤職明の養子となっていた)後藤純明に領地を奪い取られている。公勢の三男公親(14代、当時15歳)は、それ以来壱岐の波多氏の許に身を寄せて雌伏していたが、天文11(1542)年8月には一旦長島荘を奪い返すことに成功した。しかし、同年11月には、再び後藤純明の大軍によって日鼓山城を追われた。公勢没後、渋江氏は明らかに衰勢を辿り始めたのである。
 その後公親は、龍造寺家を頼って佐嘉の与賀に落ち延びた。また息子の公重と公師(15代)は肥後国山鹿の談議所寺に隠棲した後、同国菊池郡赤星村の山鹿(赤星)重行の許に身を寄せた。後藤純明は、長島荘が本来渋江家の所領だったとして、永禄2(1559)年に公重と公師を「帰参」させ、有馬の侵出に備えさせた。二人は潮見に築城したものの、間もなく永禄3(1560)年9月 −異説は永禄6(1560)年10月−有馬純宗に破れ、公重は討ち死にし、公師は妻子のいる菊池へと落ちて行った。一方、後藤純明はすぐに急襲して有馬純宗を討ち果たして潮見城を奪還し、永禄5(1562)年4月、再び公師を帰参させた。
 公師と貴明の仲は天正7(1579)年頃からまた微妙になり、その後公師は波瀾に富んだ数奇な人生を送ることになった。ここで詳細に記す余裕はないが、公師は波佐見、平戸、壱岐などを転々とした後に、客将として大村純忠から波佐見一万石を給された。彼は、慶長(1592)年9月に同地で没している。享年79歳。公師縁りの各地が、九州でも特に河童の伝承の多い地域であることは、誰の目にも明らかだろう。事実、公師の子孫には、大村氏に仕官して大村姓を賜った大村渋江氏などの他に、波佐見水神社、長崎水神神社などの宮司を勤める家筋がある。私は、これら公師縁りの各地を訪れては、民俗と古文書を探索する旅を幾年間か続けたのである。
渋江公昭家文書
 各地の文書館、教育委員会、地方史家、民俗学研究者を訪ねる旅の多くは徒労に近かった。しかし、1995年夏、菊池市隈府横町から明治年間に同市大字水源へ移転した天地元水神社が存在することを突き止めて現地を訪ねたのが、大きな転機になった。同1995年冬、田主丸町誌の取材のために、同編纂委員会事務局長日野文雄氏と再度水源を訪れた。この折りには、渋江家が明治まで隈府横町で渋江家が祀っていたと推定される罔象女神の大きな石祠を、或る菓子舗の裏手に見出した。しかし、そこで時間が尽きてしまった。
 1999年5月、熊本の民俗研究家江口司さんと菊池市水源の天地元水神社にもう一度出掛けた後、熊本市水前寺にある渋江公昭氏の御自宅を訪問した。そして、漸く膨大な古文書の伝存を確認することができた。数年前に一部の傷んだ古文書を捨てたばかりで、残りも処分しようかと話し合っていたところだというご当主の率直なお言葉に触れ、江口さんと(次善の)幸運を喜び合ったことを昨日のように思い出すことができる。
 1999年度、私は同僚の田上繁(日本近世史)と共に常民研内に調査班を編成し、2000年2月に古文書の保存状態の予備調査をしたが、この機会に、熊本の渋江公昭家に保存されているものに質量共に匹敵する文書が天地元水神社鞘堂内に埃を被って眠っていることを知った。そして私たちは、この史料を渋江さんの御自宅で保管して頂くようお願いしたのだった。2000年度は常民研で本格的な予算を組んで貰い、古文書の一部を接写した。2001年度調査として今回(本年2月4〜6日)行った接写は、それを引き継ぐものである。
 渋江公昭家は、永禄2(1559)年に潮見城で討ち死にした公重が菊池に残した一人息子公実(後に公成と改名)の裔に当たる。寛永11(1634)年、公成の息子公通が菊池隈府横町に天地元水神社を開いた。菊池渋江家は肥後・筑後・豊後一円に水神信仰を広めたばかりでなく、私塾も開き、明治に至るまで菊池の文教の中核的な担い手となったのである。
 まだ未整理なままながら、同家伝存史料から、水路開鑿・藩公の参勤交代渡海安全祈願の祭儀、各地への護符頒布行、正邪を巡る紛争と裁判等、水神(河童)に纏わる信仰・行事・民俗の諸側面の実態などが詳細に見え始めた。この史料が河童・水神信仰研究を一新するのみか、歴史・民俗の研究に新たな展望を切り開くことは恐らく疑いない。
 しかしながら同家文書は膨大で、熊本市の同家(13箱)と菊池市水源の天地元水神社保管分(7箱)を合わせて20箱に上る。過年度までに整理が完了したのは、僅か十分の一余りにすぎない。このままの進捗状況では、発見した希有の史料を活用できるようになるまでの道程は誠に迂遠である。本年度は、調査・研究体制を大幅に充実して、膨大な史料の接写と整理をできる限り加速し、一日も早くこの画期的な歴史・民俗史料の利用に道を開くことに全力を傾注したいと切望している。
 なお、渋江公昭家や天地元水神社氏子の皆さんがこの調査を大きな楽しみとして、毎回
私たち一同を心から歓迎して下さることは、無上の喜びである。加えて、調査開始以来熊
本市水前寺のホテル松屋を宿舎兼接写現場としているのだが、お女将さんと従業員の方々の誰もが様々な便宜を実に快く与えて下さり、万端行き届いた心遣いを示して下さっている。お陰でどんなに作業が捗り、調査が楽しいものになったか、恩恵は計り知れない。私と田上だけでなく、歴史民俗史料学研究科の院生たちにとっても、渋江公昭家文書調査はこの意味でも待望の研究旅行になった。末尾ながら、ここに記して衷心からの感謝の小さな印としたい。   (文責 小馬徹)

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